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オッペルの作品と当時の評価

ナチスが出現する以前のワイマールにおいて、オッペルはある程度の成功を収めていた。オッペルの音楽が同時代の批評家によってどのように受け取られたかを考えることは興味深く有益である。1920年8月5日のケルナー・タブラット紙に執筆している「F.A.」は、ラインハルト・オッペルについて以下のように述べている。

    音楽家、作曲家。不当なことに脇に追いやられている。不当なことに聴かれることがない。もし彼の創造の泉を発見したなら、彼が極めた「魂の形式」(beherrschtester Seelenform)の深い暗闇を目の当たりにすることになる。これらの表面に当たる光は、古典的なバッハのようなものを輝かせるが、アラジンの魔法のランプに照らされているのではない。想像を絶するとんでもないものを放射するのではなく、充実した感情の安らぎがそこから始まる ー この音楽は純粋に舞い上がり、軽々と耳に入ってくるものすべてを誰も拒絶することはできない。大きな拍手を求めるのではなく、仕事の後の楽しい時間を求める。おそらく、この理由のためにオッペルの音楽の神は独立しているようだ。それは誰のものでもない。むしろ、それ自体真っ直ぐで率直に受け止められることを要求している。そして目一杯の理解の手を差し伸べれば、花を咲かせ聴き手に感謝の気持ちを表す…..  

 

 オッペルの音楽は私たちの時代の目を引く物の中で何よりも優れている。ある意味で、対極であり、新しいものと不確実なものを強いるすべてと釣り合いを取る重りである。それは  しっかりとした足の上に立っている。男性的な力が、様式の変化を素早く止め、逸脱を防ぎ ― ……歌曲は、テキストを繊細に用い…作曲家の劇的な才能を見せ、詩的表現と様式美に到達している。 …..ヴァイオリンのための作品は強い印象を与えた。ミミ・シュルツェ=ブシウスは、オッペルとともにヴァイオリンとピアノのためのソナチネ作品24を演奏した。しばしば形式の束縛から自由に解放されるが、メロディの流れがクライマックスに向けてピアノとヴァイオリンのやり取りを構築する。もっと難しいのは、ヴァイオリンのための無伴奏組曲ホ短調作品19である。この作品においては、硬い石が彫刻され、ハンマーは無慈悲に使われる。そして、二つのヴァイオリンのための組曲においては、無伴奏組曲の演奏者であるウォルター・シュルツェ=プリスカがミミ・シュルツェ=ブシウスと共に演奏しプログラムを終えた。芳醇として、緩徐楽章は朗々とした響きに平和を見出す。

 オッペルは弦楽四重奏曲の演奏と作曲に長い間関心を持っていた。1918年にリールの兵士であった間、シェンカーに「ここで少なくとも私は音楽を作り仕事することができます。私の親しい数少ないヴァイオリンの名手達は劇場で活躍し、私たちはよく小屋で弦楽四重奏を演奏したりしています」と書いている。1913年から1920年代後期にかけて、オッペルは、ヴァイオリニストのウォルター・シュルツェ=プリスカ(1880-1962-63)と親しい職業的友情を楽しんだ。シュルツェ=プリスカはドイツ移民として米国に生まれたが、1900年代初めにさらに音楽の勉強を進めるためドイツに戻った。彼のオッペルとのつながりは、第一次世界大戦前からである。シュルツェ=プリスカが第二ヴァイオリンのウィリ・シュミット、ヴィオラのハンス・ミュンヒ=ホーランド、チェロのオイゲン・ケルナーと共にプリスカ弦楽四重奏団を結成したとき、実際にオッペルの弦楽四重奏曲全曲を初演ないし演奏した。上記の批評で言及されているように、ウォルターの妻のミミ・ブシウス=プリスカもオッペルのヴァイオリンの二重奏曲を演奏した。ケルンを拠点にかなりの成功を収め、1929年には米国ツアーをも行い、ドイツ・グラモフォンのための録音に至った。実際、オッペルの弦楽作品の多くはこれらの音楽家のために作曲されており、弦楽四重奏曲第四番はウォルターとミミに献呈された。 

 オッペルが、歌曲「An eine Rose」(バラに寄せて、ヘルダーリン作詞、1923年5月24日)、「Abbitte」(贖罪、ヘルダーリン作詞、1924年12月20-21日)を作曲した時期及び弦楽四重奏曲第四番を書いた1925年上半期に、作曲家の個人的生活は、妻のゲートルードの詰まるところ末期的な病と、ずっと若い女性との秘密の芸術的つながりによって複雑であった。1924年10月、ゲートルードはスイスの療養所に送られ、1925年7月25日にオッペルはルガーノに駆けつけ、そして8月4日に恐ろしい病の末に彼女は世を去った。同時期(1923年―1926年2月)に、オッペルは「ジゼラ・ウィンクラー」(実名かどうか不明)との ― おそらく精神的な ― 愛情を抱いた。彼女はチェリストであり才能あるアマチュアの詩人であった。彼女のオッペルとの関係は、一連の16曲の歌に記されており、(著者が「ジゼラ・サイクル」と表記する)「An eine Rose」と「Abbitte」、チェロのためのロマンツェ(おそらくジゼラが演奏するための)及び抑制された声のパートを伴ったピアノのための組曲(ベルクのやや後期の叙情組曲の最終楽章のように)を含んでいる。歌詞とピアノ作品に隠された詩の設定から、伝記の詳細の一部を推測することは可能である。1926年の1月から2月にかけて、ジゼラとの関係は批判的な局面に入り終わった。 

 

 既に1920年代の初期において、オッペルの音楽は、高度に独創的、実験的でかつ強く過去に根ざしたものとして注意を引き始めていた。オッペルの音楽に関するこの点について、著名な文筆家であり批評家であるパウル・ベッカーは、ベートーヴェン、シェーンベルクとオッペルの後期弦楽四重奏曲を比較しながら、1922年1月のキーラー・ツァイトゥング紙の中で述べている。ベッカーは、オッペルの個人的生徒でもあったキール大学のクリングホーファー教授宅でのオッペル作品の準公開演奏会について述べている。

    日曜日の晩、芸術愛好家であり芸術支援者の一家であるKl(クリングホーファー)教授の別荘において70人を招いた演奏会があった。本当に私的な性格のものであったにもかかわらず、議論と注目に値するものである。その本質的な重要性を考えてみよう。100年前は、室内楽、特に現代的な室内楽は、より広いサークルが近づけるのが普通であった ― そうだ、規範ですらあった。ベートーヴェンのような人には、多くの人々、特に支援者によって用意された方法があった。今日、私達は、ベートーヴェンの室内楽が、彼の現代性のために、どれだけ新しく、どれだけ難しく当惑さえするものであったに違いないことを、辛うじて認識することができる。私たちは、もし多くの私的な演奏によって道が開かれなかったなら、どうやってこの新しく高度に個性的な音楽作りが大衆と出版社からの受容を勝ち取れただろうかと、辛うじて想像することができる。19世紀から20世紀に掛けて、公開演奏が突然多くなった結果、私的な演奏の必要性がより強くなった。最近、これら(私的演奏会)は、早期の特別な目的、即ち困難で論争の的になる現代芸術をそれを練習し関心を持つ人々よりも広いサークルに受け入れられるようにすること、に奉仕する限り、芸術の涵養と促進に本質的に重要なものになった。大抵私達は、大規模な演奏会に行くような大衆が未だに受け入れられない作品や、それ故に純粋に、実務的配慮から、プロの室内楽団体が慎重に遠慮がちに近づける作品だけに関心がある(あるべきである)ので、いずれにせよ公共的な音楽の生命は傷つけられないだろう。一方、創造的な芸術家は、彼らの更なる進歩にとって、聴かれること、生の聴衆に対して創造物が及ぼす効果いわば「火による試験」に最初に手を付ける経験をすることが人生に必要なものであり前提と感じている。この意味において、A.シェーンベルクの判断の下で、ウィーンにおける重要な私的な室内楽演奏が確立され、ライン河沿いの芸術都市やベルリンなどで私的演奏会は復活した。そして、この視点からも、キールで初めてのこの種の催しは特に意味深く手本になるものである。

 

 二日前の晩は 高く評価された地方作曲家であるラインハルト・オッペルに捧げられた。演奏されたいくつかの作品はすでに公開演奏されていた。実際、我々のキール弦楽四重奏団と管楽器の団体は現代作曲家に丁寧に向き合ってきた。オッペルの夕べ全体を通じ、この作曲家の非常に個性的で特異な作品に聴衆は特別に強い印象を受けた(下線は私の強調)。

 ベッカーの最終的なコメントは、現代の批評家がオッペルの普通でない調性の語法によく注意を払っていたことを明らかにしている。ハーモニーは常に予想外の方向に移行し、演奏家にかなりの課題を投げかけている。 弦楽四重奏曲第四番に見られるこれらの難しさは、その初期の演奏に関するオッペルのシェンカーへのコメントで明らかである。1925年11月29日、オッペルは初演について書いている。「12月13日、私の弦楽四重奏曲第四番が初演されるだろう。」初演は少々早めに行われたことは間違いない。1925年12月11日付けのキーラー・ツァイトゥング紙において、ベッカーは「日曜日の午後、大学の講堂において、キール弦楽四重奏団はラインハルト・オッペルの新しい弦楽四重奏曲へ短調を演奏した。同時に、この種の室内楽演奏会に来る、より違いの分かる傾向のある聴衆が、作品を暖かく、というより熱狂的に歓迎したことは記されるべきである」と書いている。 

 

 3年後、オッペルはシェンカーに「弦楽四重奏曲第四番は、演奏は悪かったが真の成功を収めました。音楽家のほとんどには、ほとんど生まれ持った才能がないことははっきりしていますが、善かれ悪しかれ、リハーサルで彼らの誤りを直すことは避けてきました。」と報告することができた。1928年1月10日、オッペルはライプツィヒ音楽院での演奏会についてコメントしている。「私は地域での弦楽四重奏の演奏評を送ります。その点に関し、その晩は成功でした。(音楽院長のマックス・フォン・)パウラーと副院長のダヴィッソンは作品に非常に強く惹かれ、ダヴィッソンは私に、音楽院に(ギュンター)ラファエルと(クルト)トーマスという若く「現代的な」同僚と釣り合いを取れる一人の強い音楽家がいることが嬉しいと言いました。」この最後のコメントは、その限りにおいては、ベッカーが述べた「非常に個性的で特異な」様式にもかかわらず、オッペルが現代主義者というより保守主義者であると見る人がいたことを示している。 

 

 文通から、シェンカーは、1928年にウィーンにおいてアンドレアス・ワイツゲルバーとフリードリッヒ・ブクスバウム弦楽四重奏団により演奏を計画しようとしたと思われるが、これらの演奏が行われたかははっきりしない。1929年12月22日、この作品はライプツィヒのラジオで放送された。1930年2月24日、弦楽四重奏曲第四番は、名門ベルリン・トーンキュストラー=フェラインで演奏されたが、オッペルはその演奏に酷く落胆した。「私の弦楽四重奏曲(第四番)は(1930年)2月24日に、ベルリンで演奏され、不幸なことに技術的にも音楽的にも非常に悪く全体的に満足できない出来でした。私はとても腹が立ちました。加えて、この夕べ全体(ベルリン・トーンキュストラー=フェライン)のレベルは驚くほど低かったです。不幸なことに、実際、これらの名手達のなすがままです。」

 

(CD「ラインハルト・オッペルの芸術」プログラムノートより抜粋)

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