top of page

オッペルの生涯

 ラインハルト・オッペル(1878-1941)は、教師の息子としてドイツ中部オーバーヘッセンのグリュンベルクに生まれた。

1897年から1900年にかけ、フランクフルト・アムマインのホッホ音楽院においてヴァイオリン、ピアノおよび作曲を学んだ。彼の就いた師にはイワン・クノールやアーノルド・メンデルスゾーンが含まれている。1898年頃、オッペルはまだ学生であったが、オルガン演奏についての短い論文を出版し、また1899年にはすでにフランクフルトの四つの合唱団の指揮者であった。実際、彼の最初の職業的作品の多くは合唱の小品と歌曲であったが、ヴァイオリン協奏曲を含むより野心的な作品にも取り組んでいる。1903年2月から1909年9月まで、オッペルは、ボンのポッペルスドルフのルター教会において第二オルガニストの地位にあり、その間徐々に音楽の分析に興味を持つようになった。彼の最初の大規模な職業的作品である管楽五重奏とピアノのための六重奏曲(1903)及びチェロソナタ(1904)は、この時代の初期のものである。1909年からは、ミュンヘンにおいてカール・サンドベルガーおよびテオドール・クロヤーの下で音楽学を勉強し、1911年にアンスバッハの裁判所にいたルネサンス期の作曲家ヤコブ・マイラント(1542-77)についての博士論文を完成した。論文はその年に出版され、彼は9月にキール音楽院の音楽理論の主任の地位を得るとともに、個人的に教えることを続けた。

 1913年にオッペルは、ユダヤ系オーストリア人の高名な音楽学者であるハインリヒ・シェンカー(1868-1935)と親しい友人かつ同僚となった。シェンカー自身の音楽理論の著作や沢山の作曲した作品を批評や討論のためにオッペルに送り、その友情はシェンカーが亡くなるまで続いた。

 第一次世界大戦(1914-18)の間、オッペルはロシアと西部の両戦線にて従軍、3回負傷し、狙撃部隊下士官としての陸軍での経歴を終えた。2回目の負傷では胃を痛め、シュベリン、メクレンブルクに移送される結果となり、そこで1915年の4月から8月に彼は新兵の訓練に従事し、1916年にはヴェルドゥンとゾンメにいた。3回目の負傷では右腕に不発弾が残り、生涯彼を悩ませ続けた。1918年7月まで前線で任務を果たし、リールでデスクワークに就いた。彼が作曲を再開することができたのは、この最後の時期だけであり、最初のピアノソナタ及び弦楽四重奏曲といった1920年代に産み出されるアイデアの多くは、リールにおいてスケッチされている。オッペルは、1912年即ち第一次世界大戦前に、最初の大規模な弦楽四重奏曲ホ長調を作曲した。1919年に弦楽四重奏曲第二番を書いたが、実はそれはメディウム(弦楽四重奏曲のジャンル)における彼の2回目の試みであった。弦楽四重奏曲第二番を完成するに当たり、1912年の弦楽四重奏曲を変ホ長調の別の弦楽四重奏曲(1920年作)で置き換える判断をしなければいけなかった。これは、現在彼の「公式の」弦楽四重奏曲第一番と題されている。


 第一次世界大戦後、オッペルは、キール音楽院において音楽理論の教職に戻ったが、経済的状況は逼迫していた。部分的には、彼の二番目の妻の収入が、貴族の家族がポーランドのポーランドの土地を失った際に減少したことによるが、戦争の後の彼の作曲と分析に対する旺盛な探求を妨げることはなかったようである。この時期の主要な作品には、ピアノのためのシャコンヌ変ロ長調(1919)、ピアノソナタ第一番ト長調(1919)、弦楽四重奏曲第二番ニ長調(1919)、弦楽四重奏曲第一番変ホ長調(1920)、ピアノソナタ第二番イ長調(1920)、弦楽四重奏曲第三番(1921-22)及びスターヒル・カルテットによって録音された弦楽四重奏曲第四番へ短調(1925)が含まれる。

 1924年から1931年にかけて、彼はキール大学の音楽理論、音楽史及びスコアリーディングの講座において教鞭を執った。1924年3月4日、彼は旋律理論への貢献と題した研究及び公開講座「最近の音楽理論の状況」についてハビリタツィオン(ドイツにおいて得られる最高の学識資格)を得て、すぐにシェンカーに「二日前に大学でハビリタツィオンを得て、これによって私はあなたのお役に立てるでしょう」と報告している。1927年にキールを去った後まで、彼は大学で教鞭を執り続け、1931年には講座「シェンカー理論について」を提案した。

1925年6月4日、オッペルはもう一人の友人に書いている。

  

 

 

 

 


 

    11月(1924年)から現在に至るまで、私はほんの少ししか作曲しなかった。七つの歌曲、二つのピアノソナタ、チェロとピアノのためのロマンス、二つのピアノ練習曲、ピアノの小品、二つの合唱曲、この合唱曲は(カール・)シュトラウベが(ライプツィヒの)聖トーマス合唱団と演奏するだろう、その他に、ピアノソナタ第三番及び四手のための作品に取り組み、現在、弦楽四重奏曲第四番に取り組んでいる。

 シュトラウベによる合唱曲の演奏について触れていることは重要である。なぜなら、この有名な合唱指揮者は、1927年6月にオッペルがライプツィヒ音楽院の音楽理論を教えるための指名を手助けした可能性があるからである。オッペルは、亡くなる1941年後期までこの地位にあった。シェンカーは、彼の1927年のライプツィヒでの指名により、オッペルがドイツの一流の音楽院においてシェンカーの分析手法を代表していたという事実を誇りに思っていた:弟子のエベルハルト・クーべに宛てた1927年6月7日付けの手紙で、オッペルの最近の指名を祝している。

 

R.オッペル教授は、おそらく彼のことをあなたに話したと思うが、彼がライプツィヒ音楽院の

音楽理論の教授に指名されたことを知れば、あなたが選んだ道で元気をもらえるでしょう。

彼は教授として公式に私の理論を教えると言っている。

 1929年の時点で、オッペルは51歳であったが、ライプツィヒ音楽院において才能ある21歳のピアノの学生であるエルフリーデ・デイと出会った。関係が深まり、1930年5月30日に彼女は彼の四番目の妻となった。ヒトラーの共産主義の「敗北」に関し最初は熱狂し、シェンカーもオッペルもすぐにナチズム反対になった。1933年7月13日、シェンカーは日記にオッペルから「新しい体制に対する期待外れの証拠」である手紙を受け取ったことを記しており、また、7月23日、「オッペルに宛てた手紙には、彼の懐疑について確認した」と書いている。オッペルのシェンカーや(後の)ヨゼフ・クネッテルへの手紙には、ナチズムへのより覚めた態度が現れている。オッペルは1941年11月21日に心不全で死去した。

 第二次世界大戦の余波の中で、エルフリーデ・オッペルと子供達は1951年から52年にかけてロシア軍による東ドイツ占領から逃れた後、夫の作品は取り急ぎ隠した場所 ― ハレ近郊の別荘の床下の彼の古い第一次世界大戦のトランク ― に埋められたままになった。1990年、ベルリンの壁崩壊に伴い、オッペルの息子であるクルトが帰れるようになり、箱を掘り出しフランクフルト近くのオデンヴァルトの自宅に運んだ。オッペルのいくつかの書籍も近くの小さな街の教会の尖塔に隠されて残っていた。1998年、北テキサス大学がクルト・オッペルを招き、1999年、大量の残された作品とシェンカーとの分析を含むオッペル・コレクションが北テキサス大学図書館蔵書となった。

 

(CD「ラインハルト・オッペルの芸術」プログラムノートより抜粋)

bottom of page